**1998年11月-2000年3月**
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南極からの運用記 JA9BOH/前川 公男
1.南極観測の歴史
南極大陸に人間が上陸したのは今から180年も前のことです。日本人として初めて南極に上陸したのは、退役軍人の白瀬のぶ
中尉率いる探検隊で、今から約90年前の明治43年11月28日に東京港を隊員27名と共にわずか204トンの木造機帆船
(開南丸)で出発し、翌々年の1月28日に南緯80度05分に到達し、一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し6月2
0日に帰港したのです。
白瀬中尉の出身地である秋田県金浦町に、白瀬南極探検隊記念館があり当時の様子を偲ぶことができます。
日本が再度南極に目を向けたのは、戦後間もない昭和31年、国際地球観測年の世界規模での観測に参加するため組織された第
1次南極地域観測隊が海上保安庁の巡視船(宗谷)で出発したことから始まりました。第1次隊は、最初から越冬を計画していた
わけではなかったのですが、好条件に恵まれて東オングル島に昭和基地を建設し故西堀栄三郎氏を隊長として11名の越冬観測を
成功させることができました。滋賀県湖東町には、西堀栄三郎記念館があって、マイナス40度の低温を体験できる施設がありま
す。
しかし翌年の第2次観測隊は、厚い氷に阻まれ基地に十分な物資が送り込めず越冬ができませんでした。そのとき基地に残され
た15頭の樺太犬のうち生き残ったタロとジロの話はよくご存知と思います。3次、4次、5次と越冬観測に成功したものの「宗
谷」の砕氷能力の限界から観測は3年間中断しました。
1965年に輸送を自衛隊が担当することになり新観測船「ふじ」が建造されて日本の南極観測は再開されました。現在は私た
ちのあとを引き継いだ第41次隊が越冬中です。
1986年から就航した3代目の観測船「しらせ」は、世界一の1万6千トンの排水量を持ち、10万馬力のエンジンを備え、
厚さ1.5メートルの氷を割って連続航行ができ、毎年約1000トンの物資と人員を昭和基地とその周辺に届けています。
南極観測は、各関係省庁の協力のもとに文部大臣を本部長とする「南極地域観測統合推進本部」が文部省に設置されて事務の統
合と連絡調整を行っています。
国立極地研究所は学術研究を目的とした南極観測の計画の立案・実施する中核機関として国立大学等協力を得て極地における総
合的な学術研究を推進しています。
40次隊の構成は、オーロラ現象など超高層物理部門、生物観測部門、大気や雪氷の観測部門と地震・地学観測部門の研究者の
ほか、気象観測、海洋観測、電離層観測、地磁気観測などの定常観測のために海上保安庁、気象庁、建設省国土地理院、郵政省通
信総合研究所から職員が参加しました。そのほか医師、調理師、通信担当など南極観測を支える設営部門の隊員は大半が民間会社
の出身で、国家公務員に採用された形で参加しました。
第40次隊の平均年齢は、出発時31歳で、最年少は24歳、最年長が55歳、当時49歳の私は上から3番目でした。
2.昭和基地に着くまで
私は、平成3年から福井高等専門学校に勤務して、電子回路や通信システムの授業を担当しています。平成10年7月1日に第
40次南極地域観測隊員の依嘱を受けました。 平成10年11月14日に晴海港を出港して、南極昭和基地での観測業務に従事
し平成12年3月27日に成田空港に戻ってきました。
さて私が南極に行くことになったきっかけは、平成9年秋に研究者仲間から届いた「国立極地研究所の超高層物理研究部門で、
電波関係に強い南極観測隊員を探している」という一通の電子メールを読んだことです。当時私は48歳で決して若くはありませ
んでしたが幸い健康には自信がありましたし、子供もかなり大きくなっていましたので行ってみようかと軽い気持ちで希望を出し
ました。 すぐに話が届いたらしく本当に行く気があるかとの問い合わせがあり、妻に相談して参加したいと返事を出しました。
しかし一緒に越冬した40人の仲間の中には、私のように突然このような話が飛び込んできた場合はまれで、中学生や高校生の
頃から南極に行くために南極と関係の深い研究分野を選んだり、南極観測と関係の深い職業を選んだ人が大半であることが判りま
した。
校長はじめ関係者の承諾をもらい10年の1月、正式に応募書類を提出しました。3月には乗鞍岳でほかの候補者と共に雪原の
中のテントで一泊を含む冬季訓練を受けました。4月に厳しい健康診断があり、数人の候補者が脱落したようです。
6月17日に正式に隊員に合格したことが知らされました。7月1日から隊員の依嘱を受けて、中旬に菅平高原で昭和基地の現
状に関する講義と毎朝のマラソンを含む夏訓練に参加。並行して部門別に機器操作の訓練、鉄塔やプレハブ小屋を建てる訓練など
を受けました。9月以降は観測物資の調達と積み込みを行い出発の日を迎えました。
平成10年11月14日に晴海港から海上自衛隊の「しらせ」で出発し、12月8日に南緯55度を超え南極地域に入り、12
月26日に昭和基地に着きました。南緯55度を超えると極地手当のため給料が高くなります。
昭和基地まで1ヶ月以上もかかるのは、途中フリーマントルで燃料や生鮮食料品の補給のために寄港してことと南氷洋での海洋
観測をしたからです。更に今回は大陸近くでスクリュウが壊れて動けなくなったオーストラリアの観測船(オーロラ・オーストラ
リス号)を救出に向かったためが1週間予定より遅れました。
3.夏作業
予定よりも一週間遅れて12月26日に昭和基地に到着しましたが、すぐには昭和基地の住人にはなれません。
39次隊が基地を離れる2月1日までは、夏宿舎と呼ばれる仮の宿舎で生活しました。
そこで夏作業日課と呼ばれる、6時起床19時食事という白夜の中での長時間労働でした。
南極での時間は、東経40度に合わせた現地時間で日本時間より6時間遅れています。
短波レーダアンテナを主とした建設作業は、多少訓練を受けたとはいえ、不慣れな場所での慣れない作業にとまどいを
受けたものです。さらに1月中は過去に例がない悪天候が続いて、作業は予定より大幅に遅れグループ全体としての作業日程を
変更せざるを得ず、人間関係もギクシャクしてきました。39次隊員から観測業務の引継を受けましたが、39次の隊員は私と
専門分野が異なっていたため引継の要領が悪かったように思われました。
それでも2月1日には39次隊が去って、40隊が昭和基地の住人となり全員が個室での生活に変わって生活環境が
良くなったこと、もう40人しかいないという開き直りもあってか、39次隊から引き継いだ観測作業を継続しながらの建設作業も
捗りはじめて結局1ヶ月遅れたものの、新しいレーダシステムも動作し始め観測を開始することができました。今思うと1月中の
悪天候のおかげで、適当に休みが取れたおかげて体をこわさなかったのかも知れません。41次隊では、1月の天候が良かった
ため過労の隊員が何名か出たと聞いています。
4.観測業務
私の任務は大型短波レーダ設備2基による極地の超高層大気の運動を連続観測することです。これは南極と北極にある
外国のレーダと共同して行う地球規模の観測です。
銀河電波の強度を連続受信して電離層の透過率の変化からオーロラ現象を観測する事も担当しました。そのほか複数の
隊員と分担してオーロラ観測衛星(あけぼの)からの電波を受信する仕事は24時間連続になることもあり夜勤も経験しました。
レーダ観測の運用調整は、基地内の観測棟からリモートコントロールできますので、機器の調子が良いときは、自由時間が
多少取れましたので、本を読んだり家族や学校に電子メールを書いたものです。
しかしブリザードが吹いた後などは、天候の回復を待って約1km離れた観測施設がある小屋まで歩いて点検に行かなければ
なりませんでした。
朝起きると観測の状態を点検することから生活が始まります。異常が発見されると日本の担当者と電子メールで連絡を取って
対処しました。 基地にある物品だけで対応しきれず、41次隊に依頼して持ってきてもらったことがありました。
太陽が顔を出さない極夜の期間が過ぎ気温はまだ低いものの日差しが強くなってきたと思うと2度目の夏になり、到着した
41次隊員の姿を見てようやく緊張感から解放されたと感じました。帰国準備と引継で2月1日の越冬交代が慌ただしく終わり、
2月4日に基地を離れて「しらせ」に乗り、シドニー経由で3月27日に成田空港へ帰国しました。
出迎えていただいた研究責任者から越冬中良好なデータが取れていたと聞き安心しました。レーダ観測で得られたデータは、
世界中の研究者に配布され分析が始まっていますのでやがて解析されて研究成果が論文として発表されると思います。
私たちが建設したレーダによる観測データの概要は、国立極地研究所のホームページに準リアルタイムで表示されています。
これをみているとオーロラが発生している状態とか磁気嵐の発生などがよくわかります。
http://www.uap.nipr.ac.jp/SD/SDsmr/new.n.html をご覧ください。
5.越冬生活
昭和基地の管理棟や居住棟内は、300KVAのディーゼル発電機による電力と発電機の余熱エネルギーを利用していて、
水洗トイレが完備され、風呂や洗濯も毎日利用可能で日本での生活と変わらないまでになっています。
しかし一歩建物の外に出れば、厳しい自然が待っています。私はほとんど昭和基地で過ごしましたが、風速40メートルを越す
ブリザードの時にわずか30mしか離れていない建物を移動しようとした際危険を感じて戻った経験があります。
生活は通常7時に朝食12時に昼食、そして夕方6時に夕食です。夜に観測をする隊員がいるので、夕食時に全員が集合して
毎日ミーティングを行っていました。毎日1人が当直になって掃除と食事の準備を担当しました。
食事は専門の調理師が2名交替で担当しましたがなかなか豪勢なものでした。
バーや映画、ビデオの放映は毎週決まった曜日に行われました。
夏作業が一段落してからは、毎週日曜日は休日となり、朝食と昼食が兼用になって調理担当者に休んでもらうことにしました。
しかし観測者は休日でも観測を休むわけには生きませんので、気を抜くことはできません。
休日を利用してスポーツ大会、花見、魚釣り、遠足、施設見学などの屋外行事と毎月1回誕生会も行われました。
5月から8月までの夜の長い冬季間には南極大学と称して隊員全員が専門分野のこと、趣味のこと、お国自慢など自由な
題目で30分の講義を行いました。
8月頃になると一部の隊員は、一週間から2ヶ月間の間基地を離れて野外での観測に出かけることが多くなり、残った隊員が
分担して専門外の仕事を手伝いました。
10月頃からは41次隊の受け入れのために、基地の周りの除雪が始まりました。昨年より今年は雪が多く除雪はほとんど
毎日行われました。
12月と1月は、これまでの観測を続行しながら、41次隊員との観測業務の引継、そして持ち帰り物資の梱包と集積、
観測結果の整理のためにあっという間に過ぎたように思います。冬の間に足にアカギレができましたが、夏になると自然に
治ってしまいました。また40人での生活のうちは、ほとんど風邪などひきませんでしたが、41次隊が到着してから数日後に
風邪が流行しました。きっと41次隊が運んできた新しいウィルスのせいだと思われます。
6.南極の自然
南極大陸の面積は、世界の陸地の10分の1あり、日本の37倍です。そして平均した高さが2450メートル以上もの氷に
覆われています。
これらの氷は下の方ほど古い年代の雪からできていて、中に数十万年前の空気や浮遊物を中に含んでいます。その氷を
掘り出して当時の炭酸ガスの濃度などを調べることができます。 世界の大陸のほとんどは、1億5千年前まで南極大陸を
中心とする大きな大陸を形成していましたので南極の岩石や生物の化石は長い地球の歴史をとどめています。
寒い南極大陸でも、露岸地帯では夏には川が流れ、鳥等の繁殖地の近くにはその栄養で緑色のコケが生えているところも
あります。昭和基地は大陸から4キロメートル離れた東オングル島の露岸地域にあって年間の平均気温がマイナス10度で、
夏の最高気温がプラス10度、冬の最低気温は、マイナス37度でした。平均風速は毎秒6メートルですが、最大風速50メートルを
越すことが数回ありました。
昭和基地付近の陸地には、コケや藻以外の生物はほとんどいませんが、海は海氷に閉ざされているもの海底にウニ、ヒトデの
ほかショウワギスと呼ばれる魚が見られ釣りもしました。大型の動物としてウェッデルアザラシがほぼ一年中見られ、春先には
氷の上で繁殖します。アザラシは生物観測の隊員の手伝いで何度か捕まえて標識を付ける手伝いをしました。
11月になると身長40センチくらいのアデリーペンギンが基地近くのルッカリー(繁殖地)に集まって産卵し夏の間雛を
育てます。基地に数十羽の群で姿を見せることもありました。少し大型の皇帝ペンギンは、真冬に氷の上で繁殖します。
何度か基地の近くに表れましたがたいてい1羽でした。
トウガモ(南極オオトウゾクカモメ)と呼ばれるトンビより少し大きいくらいの水鳥が春になると渡ってきます。ペンギンの
卵や雛を餌にして繁殖します。夏宿の近くにもいたようです。ユキドリというハトより少し小さい鳥も露岸地帯の岩場で繁殖
していました。 鯨は行きと帰りの船上から数度見ることができましたが、あまり近付けませんでした。
7.オーロラと星空
昭和基地は、磁極を中心から20度離れた極光帯近くに位置しオーロラの観測には適した場所です。オーロラが光るのは、
地上100キロメートル以上にある窒素、酸素、水素、ヘリウムなどの気体分子、原子に主に太陽風と呼ばれる高速の
荷電粒子が地球の磁力線沿いに飛び込んできて衝突するからです。ネオンサインとよく似た原理です。
当然オーロラの活動は、太陽活動と密接に関係していて、ほぼ11年周期で活発なオーロラが見られます。昨年と今年が
その最盛期と言われていて、私たちは越冬中何度もすばらしいオーロラを見る機会がありました。越冬初期の2月から
3月の頃は、オーロラが出たと放送があると全員が寒い中をカメラを抱えて外に飛び出したものですが、そのうちによほど
明るいオーロラが出ないと誰も外に出てこなくなりました。7月から9月にかけては、晴れた夜には毎晩オーロラが見えました。
しかし10月下旬以降、白夜が近づくとオーロラは見えなくなってしまいました。
オーロラのため印象が薄いですが、南十字星、大小のマゼラン星雲、暗黒星雲、天頂に輝くさそり座など南半球ならでは
の天体を見ることができました。
緯度が高いため月が全く出ないことを体験しました。
太陽は夏の間一日中沈まない状態(白夜)になったり、冬には全く太陽の出ない極夜の状態をそれぞれ50日間経験しました。
8.最後に
昭和基地から日本へは、電話、FAX、電子メールなどでいつでも日本と連絡が取れます。しかし越冬期間中は、連絡は
取れても日本に戻る手段がありません。
家族に不幸があっても戻ることはできないのです。幸いに留守家族には何事も無かったのですが、連絡がとれるのと
交通手段が無いのは別物と言うことを強く感じました。
マイナス40度近い寒さ、オーロラ、南十字星、アザラシ、ペンギンなどの南極の自然にも慣れてくると、逆に緑の多い福井の
自然が恋しくなったものです。
地球規模の大気の動きを観測するという世界的な研究の一翼を担う分野で南極観測に参加して得た体験は私に取って
貴重なもので一生の思い出となりました。
もう一度行けたらどうするとよく聞かれましたが、2度目の南極では要領よく過ごせるとは思いますが別の場所に行って
みたい気もします。
(おわり)
(この記事は2000年11月20001年2月京都クラブ会報No.362からNo.365に掲載されたものです。)
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Last Update Jan. 1,2001