京大植物園問題にみる価値観の頽廃

-21世紀の京都大学はどこへ行くのか-


河野昭一(京都大学名誉教授)


ここ数年来、京都大学はキャンパス中、どこを見ても建築ラッシュである。しかも、京都市の建物の高さ制限の緩和によって、中央キャンパスも北部キャンパスも5階以上の建物が林立し、高層化が急ピッチで進行しつつあり。大学全体が大きく様変わりしつつある。しかしながら、京大の様変わりは何も建物ばかりではない。独法化という、およそ一昔前ならおそらく大学人が誰一人として思いつきもしなかったような組織的改組が急ピッチで進行している。こうした変化が、教授会構成員のメンタリテイにまで影響を及ぼしている、などと言うことは考えたくもないが、近頃、京大内で起こっている出来事は余りにも異常で、変だ。

京都大学植物園の歴史と役割

 京都大学の北部キャンパスの東端の一角には理学部植物園がある。今から81年前の1923年(大正12年)に設立され、総面積2ヘクタール余りの小さな植物園ではあるが、歴史と伝統がある施設である。この小さな植物園が、京大のフィールド系生物学分野の研究に果たしてきた役割は大きい。

 フィールド研究の分野を支える基盤は多面的で、かつまた多様である。植物の研究資料としてのいわゆる"押し葉標本"は伝統的な研究資料作成方法としては変わらないが、現在の新たな技術革新のなかで、乾燥した標本資料の一部からDNAを取り出し、特定遺伝子の構造を決定することも可能となりつつある。しかし、そうした中にあっても、生きた標本、すなわち植物を丸ごと生かして研究の素材とする方法は、歴史的には数世紀も遡って今日まで面々と続けられてきた伝統であり、京都大学においてもこの良き伝統と手法は、北部キャンパスの一角を占める京大植物園において継承され、今日にいたっている。しかし、このささやかな規模の植物園が、京都大学のフィールド・サイエンスの研究に果たしてきた役割と貢献は極めて大きい。創設者の郡場寛先生は、時代を遙かに先取りして"生態植物園"の建設を目指したという。要は、単なる栽培・管理の行き届いた"栽培園"ではないのである。この伝統を、その後の後継者は、発想においても、実践においても限りなく継承し、多くの樹木を植栽し、三木茂先生が、最初化石として発見し、後に中国でその生存が確認された歴史的遺産のメタセコイアや、日本には化石が出土するだけだがアメリカユリノキ、シナユリノキを始めとして、数多くの第3紀要素の樹木が茂る系統保存園としても見事な緑地空間を北部キャンパスの一角に確立し、今日に到っている。在任当時、私自身も職責上、また専門分野の関係もあって、この植物園の維持管理にたづさわった一人であるが、当時から今日まで、植物園で働いていた多くの技官や非常勤の職員の方々の献身的ともいえる奉仕によって、この良き施設は本来あるがままの姿形と合わせて、その役割を果たしてきたのである。官制上、組織としての公的市民権を与えられていない施設の運営ほど大変なものはない。人も金も補償されていないからである。しかし、当時、施設担当の教官、技官、事務職員は、この施設の維持・運営と、そして何よりも教育・研究への活用には最大限の労をおしまず努めてきたし、現にここで行われた研究の中身は、単に植物学の分野にとどまらず、動物学の分野においても、集団のモニタリング調査や、行動生態の研究においても限りない貢献を成し遂げてきた。

 生物科学の一領域において今や、遺伝子研究は今や時代の寵児であり、流行の先端を担い、研究費が湯水のごとく供給される打ち出の小槌でもある。そういう私自身も、現役の時以来今でもいわゆる分子系統学なる分野の仕事に従事しているし、20年前、理学部植物学教室に「分子植物学講座」設立の必要性を訴え、講座新設に携わった張本人でもある。

 しかし、生物科学の対象レベルは、言わずもがなのことであるが極めて多岐にわたっている。丸ごとの生き物である"個体"、個体が集合した"集団"、"個体"、"集団"が時空的構造単位としてさまざまなレベルの纏まりをつくり、それぞれが独立した繁殖社会を形成する"種"、そして種が集合して形成する群集と、物質、エネルギー循環系を共有する"生態系"などにそれぞれ括って、そこに存在し、働く"因果系"の成立とその維持機構の解明はもとより、その成立の歴史的背景と機構をも解明の対象とする。一方、生物科学のフロンテイアーでは、個々の生物の内的構造と機能の解明へと向けられてきた。しかし、これは何も今に始まったことではない。器官、組織、細胞、細胞内オルガネラ構造、遺伝子へと私たちの目は、生物を形作る構造と機能の本質の解明へとずいぶん昔から向けられてきた。今や現象として単純に取り出せる"決定性"、"予測性"に根ざした機能生物学(分子生物学、分子遺伝学)全盛の時代でもある。しかしながら、レベル論を越えて、生物的自然の構造と機能、その進化の仕組みと多様化の歴史は、因果系のなかで単純な一本道のストリーでは語れるほど単純ではない。土台、生物の進化自体が、"非決定性"の現象ではないか。

京大は一体どこへいくのかー理学部植物園にみる暗い予感

 昨今、新聞紙上にまで登場している"京大理学部植物園問題"なるものの正体は、一体どこにあるのだろうか。確かに京大植物園は、私自身が学生時代学んだ、国内にあっては北大農学部植物園、海外のモントリオール大学Jardin Botanique、ウイスコンシン大学樹木園、そしてニューヨーク市ブロンクスのど真ん中に居座るニューヨーク植物園に比べるならば、規模とスケールにおいては遙かに小さい。しかし、小さいから役に立たない、という価値観の根拠は極めて薄弱で、要はこの"小さな空間"で何を成し遂げるのか、と言う明快な目的意識と思想の欠落が,"知の殿堂"らしからぬ規則と秩序だけが支配する組織への急激な改編の論理的根拠だとしたならば、そのメンタリテイは正に地に落ちたといわねばならない。

 過去80年にわたり京大の先輩達が丹誠をこめて育成してきた樹木の理由なき大規模な伐採を批判し、阻止した植物園の非常勤職員への解雇通知、そしてその後理学部への突然の配置換えがあったという。単純な配置換えは、どの部局でも間々ある事柄ではある。しかしながら、植物園の維持管理に精通し、永年にわたる勤務で植物園の隅々まで熟知したスタッフの突然の配置転換の理由は、いったい全体なにがその論理的根拠であるのかに対して疑問がなげかけられている。そして、手薄になった植物園の管理のため、侵入者である雑草を駆除するために除草剤の散布が恒常化したといわれる。確かに、手間暇のかかる手取り除草よりは簡単かも知れない。しかし、除草剤散布による除草剤抵抗性の遺伝子型をもった"有害突然変異"の発生とその遺伝学的メカニズムの解明は、すでに何年も前になしとげられた"分子遺伝学的テクノロジー"の成果である。植物園においては、除草剤は正に、百害あって一理なしである。私は若い頃から国内外の数多くの植物園を渡り歩いてきた。しかし、いわゆる"研究植物園"の名のつくところで、除草目的に"除草剤"が使われたという事実は、寡聞にして知らない。と、言うよりは基礎研究を行う場としての"植物園"という名の施設においては、やってはならない"禁じ手"の一つであることは、言わずもがなの不文律であると誰もが考えていたし、今でもそうであると確信をもって言える。

 理学部には「植物園運営委員会」なるものがあるという。そして側聞するに、運営委員会には、フィールド系の植物の研究者は一人もいないという。はたして、運営委員会の方々は"植物園"の何たるかをご存じなのであろうか。京大を去った部外者が申し上げるべきことでは無いのかも知れないが、むしろ、この際、全学から募集した全員若手の教官で、植物、動物、菌学分野を含むフィールド系の生物学を自らの専門とする委員会を新たに組織する方が、京都大学全体にとっても現状に即した正しい判断と植物園の将来像にかんする構築に寄与するところが大であると判断されるが、いかがなものであろうか。

 私は、外野から事態の推移を拝見させていただいている一人として、あえて申し上げたい。「植物園運営委員会」は、土、日には植物園の門を厳重に施錠して閉ざし、純粋な動機の植物観察会や立木の調査、植物園を使った研究活動すら締め出し、このような管理手法と偏狭な価値観を押しつけることに疑問をいだく若い世代からの問いかけに、正面から向き合って対話することさえ拒否している、と聞く。

 "自由"、"主体性の尊重"、"理想の追求"、そして"創造性"の育成が、モットーであった京大理学部の"知"の伝統が、かくもかたくなな教条主義、管理主義に陥ってしまった、とするならばその存在意義は根底から否定されたに等しい。ブルータスならぬ"京大"よ、お前もか、と言いたくなる。

河野先生プロフィール

プロフィール
河野昭一(かわの・しょういち)<京都大学名誉教授>
1936年北海道生まれ。1959年、北大農学部卒;1962年 カナダ・モントリオール大学、院博士課程修了;1974年、富山大学教授を経て、1984年より京都大学 大学院理学研究科教授;京都大学総合博物;2016年逝去


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